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OBの語り1 上野 新様(昭52卒)

「春日丘高校音楽部の思い出」

 私が音楽部に在籍したころの音楽部の状況は、清原先生が赴任されて3年目で飯島先生時代からの過渡期に当り、音楽部の再スタート時期と言っても良いと思います。
 2年生の初めには同学年の男子部員は3人いましたが、文化祭が終わる頃には指揮者をしていた私一人だけになってしまいました。男子部員だけでなく、当時は2年生の文化祭が終わると、皆さん受験態勢に入っていたようで、殆ど1年生部員だけの活動になってしまったことを思い出します。この当時1年生男子部員は一人だけで、なんとか混声を維持しようと、合唱の練習よりも男子部員勧誘の練習の方が多かったかもしれません。
 以下、思い出に残るエピソードを箇条書きにしてみます。

<エピソード 1>
 1年生の9月のとある日、初めて音楽部の練習を覗いた日、ずっと立ったまま歌い続けることに慣れていなかったためと、女子部員の多さに緊張したのか、貧血を起こしてしまいました。
<エピソード 2>
 清原先生になって初めての第22回定期演奏会を前に、1月に先生が肺気胸のため入院され、先輩指揮者が毎日練習テープを病院に持参され、先生の遠隔指導を仰ぎながら定期演奏会にこぎつけました。このとき、第4ステージでOB合同ステージが行われました。
<エピソード 3>
 この定期演奏会の1ヶ月前、第2回音楽会が新体育館で行われ、オペラ「魔笛」を上演しました。この時、清原先生は病院から毛布に包まって、寒い体育館で私たちの演奏を暖かく見守って頂きました。このときの全体合唱が歌劇アイーダの「凱旋の合唱」で、今日まで歌い継がれています。
<エピソード 4>
 2年生の6月、大阪府合唱祭に参加しました。1975年。この年より連続出場が続いています。
<エピソード 5>
 2年生の文化祭では3年生男声の先輩方が全員出演してくださり、無事に混声合唱をすることができました。ただ、日頃の練習状況は1、2年生合わせて4人でしたので、卒業した先輩方の殆どが浪人中にもかかわらず、放課後には音楽室に足を運んでいただき、ご指導いただきました。
<エピソード 6>
 文化祭が終わると、男声部員は1、2年生共に一人ずつとなってしまい、音を楽しむには程遠い状況が続きました。ちなみに、私が指揮をすると男声は一人、ベースだけとなり私はテノールのパートを歌いながら指揮をしていました。信じられます???
<エピソード 7>
 当然ながら、その年の定期演奏会はできませんでした。音楽会も女声合唱での参加となりました。指揮者だけ男性というのも恥ずかしかったので、副部長に指揮をお願いしました。副部長さんごめんなさい。このときの全体合唱はカヴァレリアの「教会の合唱」でした。この曲も今日まで歌い継がれていますね。
<エピソード 8>
 3年生になって、新入生のオリエンテーション。校歌指導とクラブ紹介では卒業生の先輩方に学生服を着ていただき、新入部員の勧誘を行いました。昼休みの練習に見学に来た新入生には「放課後には男声部員が来ます」とウソも方便、男声部員も徐々に増やすことができました。因みに、私が入学した1974年から制服が廃止されましたので、この頃には若い卒業生の出入りは殆ど違和感がありませんでした。
<エピソード 9>
 時相前後し、2年生部員の勧誘にも力を入れ、同志社グリーで活躍したN山君や音大に行ったY原君、藤蔭会会誌の表紙でお馴染みのO世良君が助っ人としてきてくれるようになりました。多分彼らは最後まで助っ人のままだったと思います。きっと部費を払ったことが無いので。
<エピソード10>
 このように混声合唱を続けることができるようになり、引退の時期を逸した私は3年の12月までせっせと放課後の音楽室に足を運んでいました。ある先輩から冬休み前に「このままじゃ大学に行かれへんで」と言われ、これを機会にようやく引退しました。当然ながら予定通りに浪人しました。そして第12回定期演奏会を開催することができ、その後、毎年行われています。

 卒業後も様々な形で音楽部や清原先生とのお付き合いを続けさせていただいています。現OB会組織の設立(1983年)や創部50周年・60周年記念演奏会、ウィーンでの第9、シドニーオペラハウスでのジャパンフェスティバル、そして今年のシアトルでのガーフィールド高校オーケストラとの共演など、卒業後の思い出も数多くあります。私にとって春日丘高校音楽部は「ふるさと」です。いつまでもふるさとが有り続けることを願っています。